2019年御翼5月号その1

                           

ララ物資の父・浅野七之助

  太平洋戦争直後、貧困にあえぐ日本では、餓死者数は約十万人いた。そんな敗戦国日本に、米国から食糧、肥料、石油、医療品などの援助物資が送られたが、これらは貸し付けであり、援助物資はそのまま日本の債務となっていた。
 米政府からの援助物資とは別に、一九四六(昭和二十一)年から一九五二(昭和二十七)までの約五年半の間、1万トン以上の食糧と、援助物資が日本に送られていた。これはララ物資(LARA― Licensed Agencies for Relief in Asia=アジア救援公認団体)と呼ばれ、日本の人口の六分の一にあたる一四〇〇万人(当時)が恩恵に預かった。
当時は誰もが、これらの救援物資を戦勝国アメリカからのプレゼントだと思っていた。ところが、これは民間レベルで起こった対日救済運動であり、アメリカ、カナダ、中南米大陸の日系人やキリスト教団体(救世軍やYMCA、宣教団体)から集められたもので、物資全体の約20%が日系人からの寄付だった。この活動を始めたのは、浅野七之助[一八九四(明治二十七)~一九九三(平成五)]という在米日本人である。
 一九四一年、太平洋戦争が勃発すると、ルーズベルト大統領は、在米日本人及び日系人全てを強制収容所に入れた。当時、朝日新聞の特派員としてサンフランシスコで暮らしていた浅野も、例外ではなかった。収容所内で人々は戦争を呪い、日本に不満を持つ者も多かった。そんな収容所にある日、日本からたくさんの醤油、味噌、お茶、医薬品、本など、当時の日本では贅沢品といわれる品々が届く。物資不足の戦時下の日本から、異国の地で苦しむ同胞を思って様々な物資が赤十字を通じて届けられたのだ。
 浅野は収容所で終戦を迎えるが、財産や家を没収されており、帰る当てもない。途方に暮れていた時、浅野はラジオで日本の窮状を耳にする。「戦災に苦しむ難民が病院にかかることもできず、食うに食なく餓死する者が毎日のように出ている」と。浅野は、疲弊した祖国日本への物資援助を決意する。「今こそあの時の恩返しをするときだ」と。
 とにかく資金を用意しなければ、と思っていた浅野は、たまたま会った川守田英二牧師にその話をすると、教会のガレージに住み込めるようしてくれて、救済運動の拠点となった。自ら新聞社を設立し、アメリカ中の日系コミュニティーに呼びかけた。これが「ララ物資」の始まりである。ララ物資は、日本以外に、朝鮮半島をはじめアジア各国へも送られ、物資の総額は現在の金額で約八〇〇〇億円にも上った。浅野の思いは、日本だけでなくアジアを救う一大運動に広がったのである。
自伝の中で浅野は信仰について述べていない。しかし、巻末の年譜に、「昭和二十一年十一月、サンフランシスコ市のリフォームド教会で、かねて教会で知った菊池なか女と結婚」とあったことから、キリストへの信仰を持っていたことが分かる。


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